雪、ときどき嵐

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舞台「いまを生きる」を観劇して抱いた感想を雑然と書き記しておく

 

舞台「いまを生きる」を観た。
映画を見てから観劇するかどうか迷ったけれど、舞台版を純粋に味わいたいと思ってあえて見ずに行った。そんな人間が、言語化が下手くそな未熟者なりに、観劇して思ったことを素直に書き記しておこうと思う。この作品や脚本家が伝えたいこととは異なるかもしれないし的外れなこともあるとは思うが、あえて批評などは読まずに書いておく。

 

【あらすじ】

1959年、アメリカ・バーモント州にある 全寮制の男子高校ウェルトン・アカデミーの新学期に、 英語教師ジョン・キーティングが赴任してくる。 厳格なノーラン校長の下、規則に縛られていた学生たちに、 同校のOBであるキーティングは「教科書など破り捨てろ!」と言い放ち、 詩のもつ素晴らしさを通じて、人生の素晴らしさを教えようとする。

キーティングの風変わりな授業に最初は戸惑う生徒たちだったが、 次第に刺激され、それぞれの個性や、規則や親に縛られない、 自由な考え方に目覚めていくのであった。

ある日、ニールは学校の古い学生年鑑を読み、 キーティングが学生時代に「Dead Poets Society(死せる詩人の会)」 というクラブを作っていたことを知る。 ニールは同級生のチャーリーやノックス、転校生のトッドらを誘い、 近くの洞窟で内緒でクラブを再開させることに。 彼らは自らを語り合うことで、 自分たちがやりたいものは何なのか、自覚していくのだった。

ノックスは偶然知り合ったクリスという娘に恋をし、 チャーリーは女子を学院に入学させるべきだと主張する。 ニールは俳優を志して『真夏の夜の夢』の舞台に立つことを決心するが、 ニールの父親からは舞台に立つことを反対されてしまう。

そして・・・

 

(舞台「いまを生きる」公式サイト

Story | 舞台「いまを生きる」 <オフィシャルHP>

より)

 


(以下、ネタバレあり)

 


私がこの作品から感じたことは、「学校という閉鎖空間の惨さ」「選択肢を知ることの必要性」「いまを生きることの難しさ」だった。

ある種の悪として描かれるニールの父親や校長は、自らの考える「正しさ」を疑うことを知らない。優秀な成績を残し、優秀な大学へ進学することこそが正義だと考えている。そんな大人が、生徒たちの可能性の芽を潰し、学校という閉鎖空間で彼らを支配する。しかし厄介なのが、彼らは決して断定形で悪とは言いきれないということだ。何故ならば、それは"子供たちを思って"の行動であるから(感情の根っこは自身の満足感や名誉のためかもしれないという可能性は捨てきれないが)。悪のように描かれるものの、その大人たちは、キーティング先生のような人に出会えなかった"可哀想な人たち"でもある。だからこそ、観客にはキーティング先生の存在が更に輝いて見える。

私が特に印象的だったのは、キーティング先生が授業で机の上に立って周りを見渡す理由を話すシーンだ。彼は「新しい視点を見つけるため」、そして「我々は常に、物事を違う角度から見る努力をしなければならないことを、自分自身に思い出させるためだ」と説く。
私は優秀な成績を残すこと以上に、その物事を違う角度から見る努力の必要性こそが学校で教えるべきものだと思っている。そう考える理由に、自分自身の学生時代の経験がある。

私は高校時代、いわゆる進学校に通っていた。そこでは国公立大学に進学することこそが正義で、大学に行かない人間はおろか、私立大学に行く人間さえも白い目で見られるような場所だった。高校時代の私は、そんな場所で何も疑うことなく「自分の偏差値のレベルより数ランク上の国立大学」を目指して勉強をした。数字こそ全てだった。
部活動でそこそこ良い成績を収めたから、恐らく私立大学への推薦の道もあったはずだが、教師からは「あなたは推薦は受けないわよね?」と最初から否定形で問われた。私は、何も思わずに「はい、もちろん受けません」と答えて国公立大学への勉強をした。
でも私は、その回答をずっと後悔することになる。推薦を受けなかったことに後悔しているのではない。"何も知らなかった"ことを、今でもずっと悔やんでいる。
私は、あまりにも無知だった。国公立大学以外の選択肢について学校は何も教えてくれやしなかったし、私自身もほとんど調べなかった。上澄みだけをすくうように偏差値の数字が載った本を読んだだけだ。私はいろんな世界があることを知らなかった。目の前に積み重なる膨大な課題をこなすことに必死で、そうして気づけば無難な国公立大学に進学していた。昔からずっと、目の前の"えらい"大人から言われたことが全てだった。正しさとは何なのか自ら考えたことがなかった。
大学生になって、自分の好きなものについて考える時間ができた。私は、昔からずっと人を楽しませることや何か作品を作ることが好きだった。大学生になってスマートフォンを手にして、SNSを通じていろんな世界があることを知った。好きなことを突き詰めて学ぶ人達がいることを知った。
私が本当にやりたかったことは、高校生の時に「こんなの就職に役に立たない」と自分の感情に蓋をしたものたちだった。

未来ある若者たちは、自由であるべきだ。そして、世の中に存在する選択肢の多さを知るべきだ。大人は彼らが足を踏み外さないように後ろからそっと見守り、時に手を貸し、そして、彼らが好きな場所へ自らの頭と足を使って羽ばたいていくのを後押しするべき存在だと思う。
キーティング先生が、詩という自由な世界を数字で批評する教科書のページを破らせたシーンを見て、私は「こんな先生と出会いたかった」と思った。
大切なのは、自分の頭で考えることだ。想像力を膨らませることだ。キーティング先生は、成績こそが全てだと信じて疑わない閉鎖空間に閉じ込められた生徒たちに新たな選択肢を与えた。その時間を、高校時代に与えられた彼らを羨ましいなと思った。

でも同時に、この作品は、子どもは自由になりきれないという現実も突きつける。
"可哀想な大人"たちによって、好きなことに時間を捧げることを許されなかったニールは、絶望の末に自殺する。子どもは決して1人では生きられない。 ニールの前に表れた選択肢は、明るい未来ではなく「死」という残酷なものだった。チャールズは退学、その他の生徒たちは退学という恐怖に打ち勝てずキーティング先生がニールを殺したという旨の書面にサインをする。
学校という檻に囲われる状況はそう簡単に打破できない。現実は夢物語のようには進まない。「いまを生きる」という作品は、そんな生きることの難しさも突きつける。

この物語は、ハッピーエンドでは無いのかもしれない。

それでも私は、ラストシーンで救われた気持ちになった。
校長の話を遮ったトッドは机の上に立ち、キーティング先生に向かって右手を左胸に当てる。「死せる詩人の会」のポーズ。「おおキャプテン!我がキャプテン!」と力強く叫ぶトッドの選択は、紛れもなくキーティング先生の教えを受けたものだ。そう簡単には変わらない学校という檻だが、そんな中でも彼らはどうにか自由になろうと「カーペディエム(いまを楽しめ)」という言葉を胸に抱いて、その後も自ら選び取っていくに違いない。私は、トッドが震えながら大きな声で叫ぶそのシーンを見ながら不意に涙が出た。想像以上にこの物語に引き込まれていたことを自覚した。そのあと続けて立ち上がるノックス、ミークス。立ちはしなかったものの悩ましげな表情で唇を噛み締めるキャメロン。彼らの根本的な環境こそ変わらなかったかもしれないが、それでも彼らには"新しい視点"が残った。それこそが救いだと思った。

ここからは、少しオタクっぽく語りたい。そもそも私がこの作品を観に行った理由は、IMPACTorsの3人が出演しているからである。彼らが舞台を踏む姿をどうしても見たいと思って足を運んだ。
私のポリシーとして、作品を観劇する際は役者自身ではなくキャラクターとして見るべきだと思っている。だから、幕が上がった瞬間から彼ら3人を「トッド」「ノックス」「ミークス」として見つめ始めたわけだが…、正直な話をしよう。
こんなにも応援している人たちの演技を、こんなにも近くで見られているんだという現実を実感した瞬間、私は、"彼らって本当にいるんだ…"と陳腐な感想を抱いてしまった。これまでに映像でしか見たことのなかった人たちが、目の前で演技をしている。というか、そもそも彼らの演技は映像でもあまり見たことがなかったので、初めての経験だらけである。「本物だ…」と全思考回路を止めてじっと見入ってしまった。

と、まあ感覚的な感想はここまでにして、演技について語ろうと思う。

まず、基くん。ミークスのちょっとアホそうなところとか無邪気さみたいなものをチャーミングに表現していた。教室で楽しげに行進するところとか煙草を吸ってむせるところとか、ミークスが憎めないヤツなんだということが伝わってきた。あまり台詞自体は多くなかったけれど、台詞のない時間も感嘆詞や笑い声などを沢山差し込んでいて、良い意味で「ジャニーズJr.らしいなぁ」と思った。キーティング先生が一番目線を送っていたのがミークスなんじゃないか?と勝手ながら思ったのだけれどどうなんだろう。ミークスという人物は、クラスメイトの中で最も無垢でフラットな存在だったように思う。
ダンスや写真から見るに基くんの表現力の幅はとっても広いと思うから、もっといろんな感情の芝居を見たくなった。基くんの引き出しをこれからもまだまだ覗いていたい。
あとこれは芝居の話では無いが、今日初めて基くんを生で見て、改めて「好きだな〜」と思った。カテコでメガネを外してピースして2階席に手を振っているところとか、去り際にも手を振ってるところとか、新くんの立ち位置をスっと直してあげるところとか、ミークスではなく"基俊介"くんを見たときトキメいたどころの話じゃなかった。やはり私は基くんを目の前にすると、それが映像であろうと本人であろうと「可愛い」という感情に支配されてしまうらしい。可愛かった。カッコよかったし、可愛かった。…えっ、可愛かったなほんと……(噛み締めるな)。

次は新くん。トッドという難しい役どころを自分らしく落とし込んで表現していて惹き込まれた。最初のボソボソとした喋り方やおどおどした視線の使い方が上手くて、まとう空気感がまさにトッドだった。詩を読んで自らの感情を爆発させるシーンは、すごくグッときた。今の彼にしか出せない初々しさがあったし、トッドという人物の不器用なところがちゃんと見えてくる演技だった。そして先述したように、ラストシーンの新くんに泣かされた。純粋にストーリーに感動したのはもちろんだが、これはラストまで彼が作りあげたトッドという人物像があったからこそ生まれた感動なのだと思うと、より感動してしまった。ここ最近で求められるものがどんどん大きくなっていく新くんだけど、果敢に挑んで吸収していっているのが伝わってくる。彼は伸びしろの人だと思っているから、俳優としての新くんが今後さらに楽しみになった。

最後は影山くん。私は、影山くんの芝居が好きだ。声が聞き取りやすいし、きっと客席の奥の方まで届いているであろう表現をしている。分かりやすくて丁寧で繊細な彼の芝居がずっと心地よかった。ノックスの純情を嫌味なく体現する影山くんのピュアさが愛おしくてたまらない。以前、影山くんのことを「熱血漢」と言った基くんの表現が好きなんだけれども、まさしく真っ直ぐで熱いところがノックスにピッタリだなと思った。ノックスはクリスに恋をして、ひたすら思いを膨らませていく。今日だけでいいからとクリスを誘うノックスの健気なところを影山くんは美しく表現していた。「想いが人を動かす」という様子を爽やかに演じてみせたところに、彼の元から持つ力を感じた。クリスの手を愛おしそうに繋ぐノックスには、心から幸せになって欲しいと思った。演技だけでなく、影山くんは華やかで一度見れば覚えるような素敵な顔立ちをしているから、これからもいろんな舞台に引っ張りだこになるんだろうなと予想。楽しみが膨らんでいくばかりだ。

こうして今日実際に3人の芝居を見て、彼らは可能性の塊なんだなと改めて思った。私は芝居について何も分からないし素人だから偉そうに感想を述べるのも烏滸がましいとしか言いようがないのだけれど、「まだまだ見ていたい」と思った。あらゆる場面で彼らがどんな引き出しから表現を取り出すのか、ずっと見ていたい。「いまを生きる」も1回じゃ足りない!と思った。何度も見て咀嚼したい場所が沢山。でもコロナ禍で一度でも彼らの姿を見れたことを幸せに思う。

そして終演後、パンフレットを読みながら、彼らが「IMPACTors」として帰る場所を持って外でお仕事をしているんだと改めて噛み締めた。どんな場所でも「IMPACTorsの…」と枕詞がつく。それは私が彼ら7人と出会ってから願い続けた未来で、こうやって手に入れられたことを実感出来る度に幸せを感じる。3人とも凛々しかったな。カッコよかった。学んだことをIMPACTorsに持ち帰って、さらにグループは進化していくに違いない。

最後に、他の方々の演技についても少し感想を載せておこうと思う。
佐藤隆太さんのお芝居はひたすら圧倒された。隆太さんの持ちうる熱さとか人を率いる力みたいなものがにじみ出る芝居。舞台上でキーティング先生はリアルに生きていた。些細な一瞬の表情も全て「ジョン・キーティング」だった。彼が生徒たちにもたらす安心感や心から自由を追い求めたいと願わせるエネルギーの根拠を、豊かな芝居でスっと提示していたのがたまらなくカッコよかった。
あと、皆さんのお芝居全て素敵だと思ったけれど、特にキャメロン役の市川さんのお芝居が好きだったな。キャメロンの真面目さと少しずつ感情が揺れ動いていく様を小さな目盛りを見事に調整しながら演じていたように思った。キャメロンという人間らしい人物は市川さんだからこそ生きていた気がする。素直で豊かなお芝居が素敵だった。

脈絡もなく感想を書き殴ってしまった。とにかく感情をちゃんと言語化してここに置いておきたいという気持ちだけで書いたのでお許し頂きたい。
「いまを生きる」という作品を見ることが出来て幸せだった。この心震えた経験を抱きしめながら、今日も考え抜いて生きていきたいと思う。
素敵な時間を過ごせたことに感謝。